私は何者なのでしょうか

もう少し、深く広く考えてみましょう。
そうだ、僕は絵が描けるから、「ぼくは画家です」。
絵が少し描けるからというだけで、あるアメリカ人が「自分はペインターよ」というのにびっくりしたことがありました。ぼくも、それを真似てみました。
写真を撮るから、「ぼくは写真家です」。
植物が好きだから、「ぼくは庭師です」。
ダンスも踊れるから、「ぼくはダンサーです」。
そうだ、勉強もよくできたから、「ぼくは優等生です」。
なーんて、やってみました。
これはなかなか、面白い遊びです。
そうだ、旅行も好きだから、「ぼくは旅人です」。
ちょっといい感じ。
ぼくは旅人、そうだ、「時間を旅する者」。

 自分が得意なこと、好きなこと、ワクワクすること、なりたいものなど、いろいろ考えてみると、自分のことがわかってきます。
 あなたもやってみてください。
 だんだん、「本当に自分のやりたかったこと」が見えてくるかもしれません。
山川紘矢「輪廻転生を信じると人生が変わる」ダイヤモンド社、36〜37ページ

tamblr.で引用を書いていて、コメントをつけるならブログの記事でもいいかなと感じたのでここに書きます。中略にすればよかったですが、せっかく写したのでそのままにします。私は、姉をフラダンサーとして紹介した後、職業は会社員であるので、そういう紹介はおかしい、〜さんは変な人だと指導教官にコメントされました。日本社会に特有な反応なのでしょうか(広い意味での社会科学が専門の方です。)私は何々ですと、職業、生業でないものをプロフィールに書くのを遠慮するのは、このことがきっかけでもあります。私は翻訳家です。私は画家です。それを職業としているのでなければ、どこか胡散臭いと思われるでしょうか。
私は私をどう感じるかに正直でいていい、プロセスはそこで進展するのだと教わったように感じました。私が何者かを決めるのは私。社会学的には別の表現をとるでしょうけれども。そういう自己規定の仕方があっていいのだと教わりました。

輪廻転生を信じると人生が変わる

輪廻転生を信じると人生が変わる

山川さんは、友人から批判されたり、理解されないことを書いていますが、私は私を批判したり理解することができない人を友人と呼んで良いのかと考え込んでしまっていました。(わたしはここで頭で考えたり、評価したりしています。)友人は私の性情や人格に理解があるべきだという思い込みが悩みを引き起こしているのです。一方で、私は私を理解することなく批判する人と、無理に付き合わなくてもいいのだと感じます。人生の重荷を下ろし、身軽になって、自己の本分に向き合う。力を注いでいきたいです。それは一人になって初めてできることなのかもしれません。私は孤独です。しかし、創造者の道につながっています。だから、本当は寂しくないのだとも思います。私は孤独でありながら本当は一人なんかではなく、大いなる自己とつながり、宇宙(世界と)根っこのところで繋がっているのです。ものごとは移り変わる。何一つ変わらないものはないのだよと、葉っぱのフレディのメッセージがよみがえってきます。