隣接市立中央図書館に出かけて借りてきた本の記録を残しておこう。

  • ティク・ナット・ハン「小説ブッダ いにしえの道、白い雲」

この日借りようと思っていたのは、ティク・ナット・ハンの本だけ。2冊のうち、最近翻訳された本を無意識に選んだが、分厚い小説なので、読むのが大変そうだ。

中沢新一の本のうち、読んでいないカイエ・ソバージュの2冊を手に取ったが、まだ読むべき(というのも変だけど)ときではないと感じて、こちらを選んだ。

  • 諸富祥彦「生きがい発見の心理学」(新潮社)

もう一冊は、すでに予約して借りられる状態にあるため、そちらを読んでからでもよかったのだが、最後までリストに残った。

  • 大須賀発蔵「ひびきあう心 カウンセリングに生きる曼荼羅の智恵」

大須賀先生のセミナーに出席したことがある。書籍も読んで傾倒していたが、離れる。まだ読んでいない本があった。先生の本が、2冊並んでいることに驚く(こともないのかもしれないけど)。所詮近所の図書館はサテライトで、この図書館は在住市より規模は小さいとしても中央図書館だけあるわ。この日、私が一番惹かれたのがこの本です。

  • 「高僧伝㈠」

前回来たとき、何とかひかり版「源氏物語」と一緒に惹かれていた本。「源氏」の方ははずしてしまった。
読書室のソファでゆっくりと本を選び、借りる本を8冊のなかから選び出す。そのなかで、「この本」「これはと思う本」を中心に読んで行き、どうしても読めない本は潔く返そうと思う。私は肌に合うものを選び取る。選好のふるいにかける。生成される私。
※本にのめりこみ、本にしか出会えないのはむなしい、寂しいことです。しかし、本には人間がいます。その人が書いた、魂が込められています。生きている人に出会えないのはむなしいことです。しかし、寂しさを紛らわせるためにすることなすこと失敗することにもなるのです。
本には生きている人がいます。だから、気の会う人もいれば、そうでない人もいます。私は「一人でいる能力」に気づき、ひとりでいることの大切さを知りました。そして、ひとりでいることを助けてくれるのも、書物です。
しかし、それもむなしい。それはどういうことでしょうか。生きている人との交流を断って、本の世界に逃げ込むこと。そうすることは身体にとっても心地いいことではなく、どれだけ読んでも満たされず、どこか空々しいのです。また別の依存のプロセス。
生きている現実との接触(それは働くことでかなえられる)。ある精神科医のいっていた言葉がよみがえってきます。しかし、それを聞いた当時は、世の中の大勢の大人の言う言葉と同じく空々しく響きました。私は漫然と面接の予約を取り付けるのに付いていけず(こんなことを今更いっても、それこそ空々しくexcuseのように響くことでしょう。)、治療は中断したので、その真意を確かめることはもうできません。
私は昨日も9時代に起きたのでまだ眠ることができず、本を読むのに飽きたのでこの記事を書いています。映画を見ているときにあくびが出るので、このまま寝付けるのではないかという期待をするのですが、それこそ習慣のなせる仕業なのかもしれません。そして、寝付くことができないのも、朝起きることができないのも習慣のなせる業なのです
※夜中に書いた記事だけど、書いているうちに意識が怪しくなってきています。そういう意味でも起きて書くスタイルがいいことはいいのだと思います。
※AV資料について書くのを忘れていました。

  • 禅密功

朱剛先生ではなく、もう一人の有名な人が監修しています。劉漢文先生の名前は紹介されていました。それにしても、朱剛先生の来日前に作られたものなのかもしれませんね。禅密功のビデオを図書館で借りることができるとは思いませんでした。

ビデオです。

  • 相川圭子「ヨガと瞑想の極致(※最果ての地)を求めて」(CD)

極地ではなく極致。どちらも同じような意味のようだが...